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あの人は変な人 #01

執筆者の写真: 木浦 ルカ
木浦 ルカ
2025年8月14日
読了時間: 6分

更新日:2025年12月31日

第一話 「大変な一日」


変な人だったよ。

記憶を辿り、うつらうつら。

今日出会ったメガネの男の話をする。


「変な人だったよ。なんか不気味だった。」



大変な一日だった。

急な雨に足止めされ、ようやく帰宅したと思えば、またすぐに買い出しに出る羽目に。

美味しくできたかどうかは自信がないが、一汁三菜の夕飯も作った。

どうして出来合いのもので済ませようと思いつかなかったのだろう。

そうだ、昼に会ったあの人のことをずっと考えていたからか。



時計は午前0時に迫っていた。

眠りにつく前、瑞希はとりとめなく雨の話、今日会った男の話を続けた。

疲れ切っていて、自分の話に恋人が生返事なことなんて、ちっとも気が付かなかった。



ちょうど12時間前に遡る。

その日の昼、健康診断を終えた山中瑞希の足取りは軽かった。

今日は午後からの出社は免除され、検診後はそのまま直帰できることになっていた。

前日の午後9時からは水しか口にしていなかったものだから、頭の中は昼食のことでいっぱいだった。

一刻も早く空腹を満たしたいところだが、胃カメラの前に喉に麻酔スプレーを吹きかけられており、健康診断終了後も30分はくれぐれも飲食しないよう釘をさされていた。

ようやくその制限時間も終わりに近づいた頃、古ぼけた看板が視界に現れる。


『ようこそ 南住吉商店街へ』


錆びた縁取りと、少し傾いた文字。

最寄駅から自宅へ向かう道の途中に、昭和の佇まいを残す南住吉商店街がある。



あれは2年前のこと。

瑞希は恋人の崇とふたりで暮らす部屋を探していた。

内見の日、この商店街に足を踏み入れた瞬間、懐かしさに胸が締めつけられるような思いがした。

きっと崇もそうだったのだろう。

二人はその日のうちに住まいを決めた。

街の空気感に一瞬で心を奪われた。

初めて訪れた日から、ずっとこの街が好きだ。

駅からは少し歩くが、商店街も近く、家賃も手頃な部屋が空いていて幸運だと感じた。

でもそれ以上に、崇が自分と同じものに惹かれていたことが何より嬉しかった。



商店街の中ほどまで進んだところで立ち止まり、しばし思案する。

さて、昼食は何にしよう。

まだ先の商店街の端にある蕎麦屋のカツ丼にしようか、今通り過ぎたばかりの喫茶店のたらこスパゲッティにしようか。

何せ15時間ぶりの食事だ。

次に食べる物はなんでもいいわけじゃない。

バターたっぷりのたらこスパゲッティに後ろ髪を引かれつつ、がっつりカツ丼な気がしてきた。

その時、組んでいた腕に冷たいものが触れた、と思ったのも束の間、轟音とともに雨が降り始めた。

ゲリラ豪雨というやつだ。

急いで目の前のクリーニング屋の軒先で雨を凌ぐ。

この調子じゃまだ暫く身動きが取れそうもない。

少しかがんで軒から覗き見上げた空は、どんな光も吸い込んでしまうような暗い灰色をしていた。


雨足は更に強く、跳ね返った水しぶきが靴を濡らす。

こんなことなら迷っていないで喫茶店に入ればよかった。

そうすれば濡れた靴で不快な思いをすることもなく、今頃あたたかい昼食にありつけていたのだから。


シャツの襟が肌に張りついて気持ち悪い。 

額の汗も雨と混ざって、どこまでが自分のものか分からない。

優柔不断な自分を呪いつつ、濡れた髪を拭こうとハンカチを取り出そうとして、手が滑る。

落ちたハンカチは、地面の水たまりに沈んだ。


「……あー、もう。」


拾い上げたけれど、とても使える状態じゃなかった。

そのとき、誰かが隣に立つ気配がした。

顔を上げると、男が一人、静かに傘を畳んで鞄にしまっていた。


「これ、どうぞ。」


男が差し出したのは、真空パックされたハンカチだった。

瑞希は一瞬、言葉を失う。

折り目は綺麗に揃い、空気が抜かれ、ぴったりと密封された布。

まるで店頭に並ぶ商品みたいだった。


「……え、これ、使っていいんですか?」


「はい。これは貸出し用です。自分の分は別にありますので。」


男はそう言って、反対の手でポケットから別のハンカチを取り出して見せた。

それも、きちんと畳まれていたが、真空パックはされていなかった。


「予備はあと二枚あります。用途別に。なので遠慮なさらず。」


好意に甘えることにして、ハンカチを受け取りながら、ふと気になって尋ねた。


「……貸出し用を普段からお持ちなんですか?」


男は小さく頷いた。


「はい。人に渡す可能性があるものは、衛生面を考慮して真空パックにしています。」


その言い方があまりに真剣だったので、思わず笑いそうになった。 


「じゃあ、残りの二枚は……?」


男はメガネに付いた水滴を拭き取りながら、少しだけ迷ったような素振りを見せたあと、静かに口を開いた。


「一枚は、緊急時の止血用です。貸出し用よりも清潔である必要があるため、新品のガーゼを未開封で入れています。もう一枚は、指紋を拭くためのものです。」


言葉の意味を理解するのに数秒かかった。


「指紋を拭くんですか?」


男はかけ直したメガネをくいと上げて、固まる瑞希の顔を見て真顔で言った。


「証拠なんて残したら困りますからねぇ。」


どうしよう。

とんでもない人からハンカチを借りてしまった。

すぐにその場から離れたかった。

しかし、激しい雨は今もなお降り続いている。

それに、急に逃げ出しておかしな人を刺激するのも良くない気がする。

どうすべきか、瑞希は必死で考えていた。


「冗談ですよ。指紋を拭き取るような機会なんかありませんよ。ただの予備の予備です。」


クククククと楽しそうに笑う男を見て、ただ苦笑いするしかなかった。

気まずい沈黙が続いた。

実際には20分ほどだったろうが、永遠のように感じられた。

そのとき雲間から光が差し、雨が弱くなってきた。

今がチャンス!とばかりに帰ろうとする瑞希を男が引き止める。


「まだ雨が降っています。これを使ってください。」


急に差し出された傘を、つい反射的に受け取ってしまった。


「そこまでしていただくわけには。あなたが濡れてしまいます。」


「心配ご無用。私にはまだ予備のハンカチがありますし、すぐそこの『喫茶ぺぷちん』で食事を済ませて帰る予定ですので。雨雲レーダーでは、あと2時間20分ほどで雨は止むようです。喫茶店で少し書き物をする予定なので、ちょうどいいんです。」


「でも、いつお返しできるか・・・」


いつ返せるか分からないのも申し訳なく思えたし、何よりこの変な男と関わるのは避けたいという危機感から、なんとしても傘を返したかった。


「傘の返却についてはお気になさらず。いつか誰かが傘がなくて困っていたら、その方に差し上げてください。では。」


そう言って男は、鞄で雨をしのぎながら、喫茶店へと駆けて行った。

一人残された瑞希は、両手で握った紺色の折り畳み傘をしばらく見つめていた。

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