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あの人は変な人 #02

執筆者の写真: 木浦 ルカ
木浦 ルカ
2025年9月17日
読了時間: 8分

更新日:1月4日

第二話 「事実は人の数だけ」 

 

午後一時。波佐見聡介は窓に打ち付ける雨のしずくを眺めていた。  

彼の本名を知る者は少ない。 

ここ『喫茶ぺぷちん』のマスターである。  

 

今日はもう客は来ないだろうな……心の中でつぶやく。  

 

幾分雨足は弱まったが、あんな大雨の後だ。  

わざわざ用もないのに商店街に繰り出す人なんていないだろう。  

流れているベートーヴェンの田園に雨音が混じる。  

普段に増して暗い店内が、まるで映画のワンシーンのようにも見える。  

 

今いる客は二人だけ。  

一人は新聞を広げたままじっと目を閉じている老人。 

松浦酒店の元店主で、南住吉商店街連合会の前会長でもある。 

眉間にしわを寄せ沈思黙考しているようだが、あれはいつもの昼寝だろう。  

もう一人はスーツ姿の若い男。  

時折電話をするが、それ以外はずっと漫画を読んでいる。  

昼休憩にしては随分と長い。  

きっと、会社に戻りたくないのかもしれないな…なんて考える。  

そんな様子を見ていると、賑やかで慌ただしい日とは異なる、静かな充足感に満たされていくのを感じた。  

ご隠居にしろ、サラリーマンの兄ちゃんにしろ、こうして自分の店が憩いの場になっていることがなんだか喫茶店冥利に尽きる気がして誇らしかった。  

 

サボりのサラリーマンには、先ほどおかわりのアイスコーヒーを出したばかりだ。  

しばらくは注文も入るまい。  

雨がくれた時間でカップを磨くことにしよう。  

ついでに夏柄のカップとソーサーを戸棚の奥の秋物と入れ替えよう。  

そう思ってキッチンにクロスを取りに向かうと、背中の方でドアベルが鳴った。  

  

―カランコロン―  

  

振り返ると、濡れた肩をハンカチで拭きながら立っている男がいた。  

いつも週末に現れる常連客だ。  

歳は三十前後、眼鏡をかけた痩せ型の男。  

  

「平日に珍しいね」  

  

声をかけると、男は軽く会釈を返し、いつもの席へ腰かける。  

お水とおしぼりを持っていく。注文は聞かずともわかっている。  

ブレンドとたまごサンド。  

  

「ブレンドとたまごサンドを」  

  

予想通りの言葉に小さく頷きながら、「お待ちください」と言ってキッチンへ向かう。  

男は席に着くと、おしぼりで丁寧に手を拭き、続いてテーブルも丁寧に、隅まできれいに拭き上げた。  

そして、整えられたその空間にノートを広げた。  

 

  

湊潤一郎は満ち足りていた。  

前回のユーモア講座の成果が確実に現れている。  

今日は初めて、その手応えを実感できたのだ。  

 

たっぷりと間を取って、声のトーンをぐっと落とす。 

ゆっくりと神妙に。 

聞き手の注意を引きつけたところで、一気にオチまで持っていく。 

その緩急が、笑いを生む。  

 

先ほどのご婦人も、指紋のくだりでは笑っていた。 

あれはなかなか良いトーンだった。  

 

「 証 拠 な ん て 残 し た ら 困 り ま す か ら ね ぇ 。 」   

 

頭の中で何度も自分のセリフを繰り返し繰り返し噛みしめる。  

タイミングも悪くなかった。  

ただもう少しどっしりゆっくり言っても良かったかもしれない。  

それを改善して、次回は――  

ノートに改善点を書いていると、先に店内にいた若い男が声を荒らげた。  

 

「課長がいいって言ったから領収書出したのに、富田さんとの接待はいいわけないだろって言ってきたんだぜ。」  

  

「いやいやいやいや、俺は確認したんだって。」


「富田物産の名前使っていいですかー?って絶対に聞いたんだよ!」  

  

「そうだよ。自分がOKしたくせに。」  

  

「飲み代?それは課長が出してくれたよ。そうじゃなきゃパワハラで訴えるよ。」  

  

「確認したのに本人覚えてないんじゃ、こっちが謝るしかねぇもん。」  

  

「しかも、なんであいつにありがとうございますって言わなきゃいけないの?腹立つ!」  

  

どうやら私的な飲み会を接待経費で申請しようとして、それを注意されたらしい。  

あの青年の口ぶりから察するに、私的な飲み代を接待名目で経費で落とすことは許容されていた模様。  

しかし、申請書に記載した接待相手が問題視され、許可を出した当人から却下される。  

かかった費用は課長が自腹で補填した為、金銭的な損失はなし。 

ただ、事前に確認を取ったにもかかわらず注意を受け、その元凶に礼を言わねばならなかったことがどうしても我慢ならない。  

そして、たまらず電話で愚痴を吐いている…というわけか。  

 

なんて会社だ。  

経理は何をしているんだ。 

私なら絶対そんな経費は認めないのに。  

つい憤りを覚えたが、他社の経営にまで首を突っ込んでいられない。  

 

次回のユーモア講座までに今回の実践を踏まえた改善ポイントをまとめておかねば。  

運ばれてきたホットコーヒーを飲んで、ふうと長く息を吐いた。  

そして、潤一郎は再びノートと向き合った。  

  

 

エリナは吐きそうになっていた。  

まずいことになった。  

もう7月分の経費の締め日は、とっくに過ぎている。


重ねたファイルからひらりと落ちた一枚。

先月末に営業部の北野から預かっていた経費申請の用紙だ。


申請するのをすっかり忘れていた。  

 

つい先日も入金額を一桁間違えるという大ポカをしたばかり。  

あのときは部長に呼び出されて、会議室で小一時間説教された。  

 

「数字を扱う部署なんだから、慎重にやってくれよ。」 

 

心底がっかりした声でつぶやかれた言葉が思い出される。 

このスパンでこの失敗はさすがにまずい。

上にばれる前に、どうにかできないか。  

策は思い浮かばないが、まずはともかく北野に話すしかない気がした。  

 

入社して4か月。  

父の口利きで滑り込んだ会社だった。  

最初は総務に配属されたが、わずか一か月で経理に回された。  

「若い子は数字に強くなった方がいい」なんて言われた。

しかし、実際は総務の先輩が「ちょっと扱いづらい」とこぼしていたのを知っている。  

厄介払いされたのだ。 

 

経理に移った当初は若くてかわいい子が来た~なんて喜んでたくせに。

最近はエリナが何かミスすると、誰かの小さいため息が聞こえる。  

「いい加減にしろ」と思われているのだろう。

  

就職なんてするはずじゃなかった。  

大学を卒業したら結婚するつもりだったのに。  


この会社に骨を埋めるつもりなんてない。 

けれど、怒られるのはまっぴらごめんだ。

ただ、今はこの状況をどうやって乗り切るか。 

青い顔のまま営業部のフロアを覗いた。  


 

「どうしたの?」  

  

珍しい来訪者に日野は声をかけた。  

  

「……あ、日野課長。北野さん、いますか?」  

  

「北野なら外回りだよ。」  

  

「そうですか。」  

  

あきらかに落胆している。

確か、経理部の子だったな。  

経理が顔を出すなんて、北野が何かやらかしたか。 

  

「北野がどうかした?」  

  

「実は……」  

  

先月末に北野から接待交際費の申請書を預かったこと。  

北野のIDで申請を出すよう頼まれていたが、すっかり忘れてしまっていたこと。  

そして、もう7月分の経費処理は締め切られてしまったこと。  

彼女は言いづらそうにしつつも、事の顛末を順を追って説明してくれた。  

  

「あいつ、申請を君に頼んだのか?」  

 

「…はい。」


その言葉と同時に、日野は彼女の手元の書類に目を向けた。

  

経費申請書  

申請者 北野洋平  

7月28日 接待交際費 26,400円  

富田物産 林様と会食  

  

富田物産の林さんだって?  

それならつい先々週、俺と部長が会食している。  

二週連続で同じ人と接待だなんて、目を付けられそうな申請出しやがって!  

日野は動揺した。 

 

営業という業務の特性上、他部署に比べて経費は比較的自由に使える。  

それもあり、営業部では私的な飲み代を接待と偽って経費で処理することが、暗黙の了解として受け継がれてきた。  

しかし、3年前に監査を外部に委託するようになってからというもの、チェックは格段に厳しくなった。  

今まで以上に注意して動かないと、思わぬところから営業部全体の責任問題になりかねない。  

 

幸いにも、この子が忘れていてくれたことで、この経費申請書はまだ提出されていない。  

ここで回収して、なかったことにした方がいい。  

  

「これはまだ経理では回していないんだよね?」  

  

「はい。まだ。」  

  

エリナの手から申請書を引き抜く。  

  

「これは俺の方でどうにかするよ。五島には言わなくていい。 それと、申請は本人が行う決まりだろ?今後は営業から頼まれても断るように。 こっちでも、自分でやるよう注意しておく。」 

  

26,400円の出費は痛い。  

だが、飲み代を切っていいとは言った手前、この分は俺が補填してやらねばなるまい。  

相手が富田物産でなければどうにかできたかもしれないが、申請を他人にさせていたのもいただけない。  

戻ったら接待相手をちゃんと確認するよう言って聞かせないと。  

北野のやつ!こんないい上司、なかなかいないぞ!と小突いてやりたい気分だった。  

  

 

思わぬ形であっさり解決してしまった。  

来た道を戻る。 

さっき通った廊下も、まるで照明が変わったみたいに輝いて見えた。 

日野課長って確か五島主任と同期だったはず。

ということは35歳?結婚してるのかな? 

エリナは部署に戻るとすぐに経理システムにログインした。

そして、日野の名前を探す。  

  

「えーっと、営業部……ひの、ひの……日野崇。あった。」  

  

配偶者手当、子供手当――支給履歴なし。  

結婚祝い金も、ここ十年で該当なし。  

多分、独身。  

ハズレの会社と思っていたけど、あんな素敵な人がいたなんて。  

落ち込んでいたことなど思い出せないくらい、エリナは舞い上がっていた。 

 

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